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恋愛と金銭

 


いつから恋愛はカネのかかるものになったのか

 
 そもそも、「お金がなければ恋愛(結婚も)できない」というのは、一体いつ頃からなのか?
 
 戦後の混乱期〜70年代にかけて、貧しい若者もまた恋愛や結婚をしていた事からもわかるように、恋愛や結婚ははじめから“プレミアム”だったわけではない。

 

恋人に贈るプレゼントは、手編みのセーターから高価な商品へ。
 水やお茶は無料のものから、ペットボトル入りの有料のものへ。
 テレビや電話は、家族持ちから個人持ちへ。
 
 こうした変化のうちに、若者の暮らしはますます快適に、ますます清潔になっていった。それは良かったのかもしれない。そのかわり、“若者としての文化的に最低限な生活”をしていくために必要な金銭コストはどこまでも嵩むようになり、男女の求愛作法は消費社会のシステムに組み込まれていった。あらゆるモノ・あらゆるサービスが金銭的に購えるようになったかわりに、なにもかもが金銭的に購わなければならない社会――そうした消費個人主義社会が成立していったのである。

 


、「経済的な豊かさは失われたのに、男女交際の作法やプロトコルは、豊かだった時代の名残りを引きずっているのではないか」ということだ。
 
 70年代末の若者と同等かそれ以上に経済的に余裕が無くなったにも関わらず、いまだ男女交際や求愛の作法は70年代末のソレに回帰していない。フォークソングで歌われたような恋愛は、ほとんど御法度に近い。控えめに言っても、そのような“貧しい恋愛”を許容できる男女は多数派とは言えまい。
 
 80年代以前において、経済的な貧しさは必ずしも恋愛を不可能にするものではなかった。しかし2010年代において、経済的な貧しさを度外視して恋愛をするのはいかにも難しい。若者の財布からカネを絞り尽くすシステムが浸透し、そのシステムに無理が生じているにも関わらず、男女交際や求愛の作法はいまだ20世紀末の面影を引きずっている。たまったものじゃない。
 
 


「今の貧しさ」だけでなく「未来の貧しさ」も大問題

 
 付言しておくと、恋愛や結婚の足を引っ張っているのは、現在だけではない。未来もだ。
 
 80〜90年代の若者は、たとえバブル景気の恩恵に浴していない者でも、案外、羽振りが良かった。月給が20万円ちょっとの若者が、ローンを組んで高価な国産車を買うなんてことが珍しくなかった。『頭文字D』で描かれるようなサブカルチャーや、90年代のゴージャスなヤンキー車のたぐいは、過去の若者の経済的な呑気さを反映している。
 
 なぜ、当時の若者は経済的に呑気でいられたのか?
 
 当時はまだ、未来の年収や生涯年収について心配しなくて構わなかったからだろう。
 
 かつて、サラリーマンの生涯年収は三億円と言われていた。正社員はありがたいステータスでもなんでもなかったし、年功序列的な賃金体系を信じることもできた。年金制度を深刻に心配している人はまだ少なかった。手に入ったお金をかたっぱしから個人消費に回しても将来どうにかなる――そんな楽観的な空気があった。
 
 今は違う。サラリーマンの生涯年収は下がり始めている*1。正社員はそれなりにありがたいステータスとなり、その正社員でさえ、いつリストラされるかわからない。年金制度に期待している若者なんて、今は殆どいないだろう。生きていくにはカネがかかるのに、そのカネが増える見込みが立たない以上、財布の紐がキツくなるのは仕方ない。収入に余裕の無い立場の若者の場合は特にそうだ。恋愛どころじゃない。
 
 誰もが「将来、自分の収入は安定していて増え続けるだろう」と思い込んでいた時代と、誰もが「将来、自分の収入は不安定で増える見込みが無い」と思っている時代では、同じ月収の若者でも事情は全く違うのだ。
 
 こうした「見込み収入の違い」もまた、恋愛や結婚の足を引っ張っていることは想像に難くないし、逆に、途上国の若者が貧しくても恋愛や結婚に尻込みせずに済むのは見込み収入に拡大の余地があるからかもしれない。発展途上な国々の若者は、たとえ今は貧しくても将来に希望を持つことができるが、日本の若者には、そのような希望など望むべくもない。
 
 


きっと、沢山のものが変わらなければならない

 
 こんな具合に、今日の男女の巡り合わせの問題は、現在と未来の経済事情と、経済事情に左右されやすい(たぶんに時代遅れな)求愛作法によって大きな制限を受けている。求愛作法も、社会の仕組みも、すぐには変化しないだろうし、好きなように変えられるわけでもないだろう。それでも、既に時代の尺に合わなくなっているものはなるべく変えたほうが良いと思うし、また変えていくべきなんだろう。
 
 もう、20世紀じゃないんだから。